【2026.08.02│運行日誌│むーモンマルシェ│まいどあり!でサヨナラしていること】
- 洗練された田舎研究所 一般社団法人
- 3 日前
- 読了時間: 10分
昨日は、弘前ねぷた祭に足を運び、夜の12時前に外ヶ浜に帰ってきました。
このところ雨続きと仕事のラッシュでできなかったバスの整頓なんかを
今朝になってあわただしく準備。
むーモンマルシェに出かけました。
「あれ?ちょっと忙しいかも」
と感じて、それは何からくるのだろう
と思案しながらの一日でした。
マルシェの会場で準備していると
最初のお客さんは、仙安さんのお母さまでした。
いつもお世話になっているだけでなく、最近ではブックバスに積んでいる
ねぷたのアップサイクルしおり
を追加で持ってきてくださいました。

わたしたちがねぶたやねぷたを観るとき
ほとんどが
「何かわかんないけど上手」「何かわかんないけど下手」
「自分の好み」「好みでない」
といった主観で見ていることが多いと思います。
けれども、作る側としては
「いわゆる伝統的なルール」
「依頼者からの要望」
「師弟関係などの反映」
「歴史認識等の表現」
「技術的な継承」
などなど、見る側が思っている以上の制約や評価点があります。
たとえば、台座部分の「蓮の花」ですが、これについても「影をつける」「つけてはいけない」など、見る側にとってはどうしてなのかよくわからない「きまり」のようなものがあったりするようです。
一方、ろうそくが電球になり、LEDに変化したりして色遣いや塗料が変化したり
雨の対策で、和紙が雨にも強い繊維に変わっていったり
大型化に合わせて骨組みが木製から鉄骨になったりと、「伝統」といいつつも、時代に合わせて変化していることは、否定できない事実です。
わたしたちは、「伝統」は維持しつつも「変化しない」ことを意味するのではなく
「移ろい」「揺らぎ」のなかで
「どうしようか」
と悩みながら生きていく存在です。
仙安さんのねぷたも、画風や色彩が斬新なことから
「これはねぷた絵なのか?」
という声はあるようですが、個人的には、その声自体は当然として
「時代の揺らぎを起こす存在」
としての仙安さんの取り組みを「魅力的だ」と感じているのです。
何の変化も新しさもなく、ただこれまでのものを継承して、マネしているというのでは
「技術はあっても進化しない」
という状況に陥ります。
一方、だからと言って「闇雲な変化を良しとする」のも間違いです。
「時代」「進歩」といった言葉に踊らされて、ただ壊していったり
「ねぷたが全部アニメザイン」
「ねぶたが全部3Dプリンター製」
だったら、それはちょっと違うのでは?となるでしょう。
「それは『揺らぎ』をもたらす存在足りうるか」
というのは、ただの「変化」「破壊」との違いだと思います。
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ブックバスの話に戻しましょう。
うごく本バコでは、現在
「蟹としろうお祭」の灯篭修繕ワークショップを随時実施しています。
先日は、こども園の親子を対象に実施し
合わせたら80人ほども参加して、40枚近く作成をしています。
とはいえ、4面ある灯篭で考えると、まだ10基分
興味のある方や、描いてみたいと思う方に参加していただいて
地域のお祭を楽しみの中で自分事にしていただけたらと思っています。

今日から、青森ねぶた祭も始まっています。
日本の火祭りとして有名なねぶた祭りも、人口減少のあおりをうけており
パナソニックねぶたが今年で撤退というのは、ご存じのところでしょう。
「仕方ないね」
というのが大半の受け止めと思いますが、すこしだけ深堀してみましょう。
シンプルにとらえると
「お金がかかって、それに見合った収入に結び付くとは見込めない」
という企業判断であるということでしょう。
一歩踏み込めばそれは
「お金の判断」
ということにほかなりません。
わたしたちは資本主義社会を生きていますから、そうした判断は大切です。
全て自給自足みたいなストイックな方は多少はいるとしても
わたしには無理ですし
ほとんど方は、お金がなければ生活できないと思っていると思います。
お金があることによって、青森でも東京でも欲しいものを手に入れたり、年齢や学歴、人種も関係なく、自由にサービスを得ることができます。
これは江戸時代の士農工商など身分でがんじがらめだった時代に比べたら、ずっと素晴らしい、平等の時代への変化です。
一方、その「お金」の力に魅了されて、行き過ぎた部分も出てきました
「お金を持っていれば何でもできるのではないか」
「お金をたくさん持っていたら偉いのではないか」
「人よりお金を持っていたら幸せなのではないか」
「何が起こるかわからないからお金がないと心配」
「とりあえずお金で処理しとけばいいでしょう」
「そんなもの1円にもならないからやらない」
という想いと行動が強くなっていっているのが現代の社会ということもできるでしょう。
実際、お金が無くなったら、今のねぶた祭りは続けられなくなるかもしれません。
前夜祭にあった花火は、実際に無くなってしまいました。
※浅虫の方々が継続に尽力しています。
お金の力は、実際にあるとないとでは違う、という状況を様々感じるところです。
そのために、
「不安」も広がっています。
都市部の収入が多く、地方の収入が少ないとか
日本の経済力が低下していっているとか
円安で貯蓄の価値が目減りしているとか
年金は維持できるのかとか
そんな状況なので
「地域を活性化しよう」
「人口減を何とかしよう」
という話にも、力が入るわけです。
繰り返しですが、現状では資本主義を否定して生きていくことはできません。
たとえば、ブックバスにしても維持管理、修繕にもお金は必要ですし
わたしの各種の仕事をしないと、そもそも活動ができません。
みなさんからの寄付本も、購入されているからこそいただけるものです。
けれども
今おこなっている「うごく本バコ」の活動を「マネタイズしよう」としたらどうなるでしょうか。
今日も、うごく本バコの周りには、
おおくのフォロワーさんたちや、子どもたちがきて遊んでいました。

前回、バスから『ふらいんぐうぃっち』『おしり探偵』を借りて行ったご兄弟や
何時だったか、たまたまバスでであった子は、わざわざ再度足を運んでくれて
「灯篭修繕」の絵を描いて楽しんでいました。
そして
このまったく知らない子どもたち同士が
「お名前はなんていうの?」
とお互いに聞いて、笑いながら1時間ほどもあそび
うごく本バコという場で、新しい友達になっていました。
両方の保護者の方も、その光景をずっと見守っていました。
もし、この場が有料だったらどうでしょう。
「1時間1000円」
「ゲーム500円」
「ワークショップ800円」
マネタイズという考え方をすれば、それは妥当な費用徴収かもしれません。
最近、そうしたちょっとした収入源を確保することが、さも素晴らしいかのように言われたりもします。
ただ、それは田舎の原理とは異なる資本主義的なものだ、ということは意識しておく必要があると考えています。
田舎の原則は
交換原則
返報性の原則
贈与の原則
です。
困っているときはお互い様
余ったものはおすそ分け
もらったことは覚えておいていつか自分も返す
そんなことが田舎では当然で、これはある意味で
経済性や効率とはかけ離れた「地域社会の維持機能」です。
これが面倒だと、都市に出て行く若者も少なくないのですが
その代償に失っているのは「人間関係」です。
一方、都会では
いい仕事に着けば幸せになれると信じていたのに
やりたいこととは関係ない仕事にうんざりしたり
狭い住宅、満員電車、高い物価で、実はそこまで豊かではなかったり
相談しようにも人間関係がない、という状況に適応できなくなって逃げてくる人が少なからずいる
というのは、いわゆる「社会のひずみ」でしょう。
都市部のほうが便利でお金があれば大抵のことは解決できる
それは確かですし
そうした都市的な生活に適応して幸せを感じている場合もあるはずです。
また
田舎では、お金があっても快適には暮らせない「特有の暮らし方」があります。
この特有の暮らし方が、
見方を変えれば「田舎の魅力」でもある、ということを忘れると
なんでも「マネタイズ」に走る状態になります。
山菜をとってきたけどあげるよりは売ろう
料理を多く作ったけど、分けないで売ろう
ほんとは捨てるようなものだけど、あの人に売ろう
お茶を出すとお金がかかるから、注文させて売ろう
友達だけど、お金払ってくれるなら売ろう
長居されてもお金にならないからさっさと帰ってもらおう
そうした場からは、何が失われるかというと
先ほどから出てきている
「人間関係」がなくなります。
そのほうが楽、という場合もあるものですが
人間関係を有料化した田舎は、もはや抜け殻でしかありません。
昨今、よく聞くのは、
「タダって言われてもやりにくいからお金とって」
という言葉。
これは言い換えれば
「お金以外での返し方、人間関係を知らない」
ということです。
確かに、そういう例も増えている感じはします。
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今日、出店していた野口珈琲さんからコーヒーを買うつもりでいたのですが
いらした方々から、いつの間にか2杯もごちそうになってました。
それが、いいとか悪いとか、正しいとか間違っているというのではなく
うごく本バコ
という場をやっていたら、いただいた
という事実です。
「うごく本バコ」
という名称は「ハウルの動く城」のイメージから来ています。
ハウルの動く城はどうして動くのか
「逃げるため」なんですね。
本来、城はどんと構えて、籠城したり守りを固めたりする場所です。
けれども、ハウルの城は「逃げ回るためにうごく」のです。
「うごく本バコ」は何から逃げているのか
それは、「お金第一の暮らしや、遊びの禁止」です。
もちろん、募金などをいただくのはうれしいことですが
いらした方はわかる通り、
「売る」という行為をする場所ではありません。
居たいだけいて結構です。
その結果
妙なクマみたいなパンダを名乗る人がきたりすることもあるでしょう

ここにあるのは「人間関係」なので
お金や立場は関係なく、どなたでもきて、居て構いません。
人の悪口とか個人情報はだめですが
バスに落書きをしてもかまいません
人間関係なので
決まったルールというよりは、それは嫌だなと思うことであれば
「それは嫌ですよ」
「それでしたら、お帰りください」
とお話しします。

結局、こちらのクマみたいなパンダみたいな人は、子どもたちにも憑依したようで
パスの周りを走り回っていました。
それもそれでOKです。
ある子がお母さんに注意されて、
「別に構いませんよ」
とお伝えしたら
子どものほうが
「この運転手さんは甘すぎるんだよ」
と言っていましたが、そうかなあ。。。
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改めて言えば
わたしもお仕事としてはお金を稼ぐことは必要でし
それがあって、この活動ができています。
けれども、仮にこの活動を有料にして、活動そのものの採算や効率
数量的なKPIなんかを重視して運行しようとした場合
さて、今日、この場で地域の子たちに「新しい地域外の友達ができる」ということになったでしょうか。
自分からやりたいとも思わない子たちに、「地域の祭りを自分事にしろ」といって灯篭づくりをやらせるように手配したら、それでシビックプライドが育つでしょうか。
「うごく本バコ」は「なんでもお金や権力で解決しようとすることから逃げる」本バコです。
そうならないかもしれないけど、子どものほうが「やってみたい」「やっていい?」と言ってくれる状況でありたいし、「やりたくない」のであれば、それはそれでがっかりということでもないのです。別に決まりじゃないので。
こういう様々なものからフリーである場を
「アジール」
というらしいです。
だからといって、わたし自身が資本主義から逃げようとしているわけではありません。その中で生きています。
でも
その中にどっぷりつかって、あわよくば友達からでもお金をとろうといった暮らしはしたくないことと、田舎の本来の良さである「おすそ分け」の部分を、「本」や「防災」、そのほかのちょっとした日常の時間に組み入れたい。
なんでも義務にしたり強制したりする仕組みや決まりからちょっとだけ逃げて、車にも落書きしたいし、からあげ食べながら本だって読みたい。
仙安さんのねぷたにもみられるような、
「あれ?こんなやり方ってあるの」
という、そんな「揺らぎ」「移ろい」の取り組みだということです。
毎度様、で埋め尽くした日常から、ちょっと離れたかったら
いらしてみてください。
まあ、1円にもなりませんけども。
